2009年02月

2009年02月24日

憧れの先生の活躍

2月25日(水)

スニール1「おい、ちょっと、みんな座って俺の話を聞けよ」
4年生の空手家スニールが興奮した表情で同級生に呼びかけた。

実は今日、スニールにとってとても嬉しい知らせがあったのだ。なんとインドで開催された空手の国際大会でヒマラヤ小学校空手部の師範、ビジャヤ先生が3位に入賞を果たしたのだ。憧れのビジャヤ先生の活躍が嬉しくて、スニールはいてもたってもいられない気持だったに違いない。

スニール2僕も4年生に混ざってスニールの独演会を聞く事にした。スニールは唾を四方にまき散らしながら、いかにビジャヤ先生が強くて、勇気をもって戦ったのか、興奮気味に話し始めた。 「イランの選手なんて、ビジャヤ先生の上段蹴りを喰らって会場から逃げ出したんだぜ」なんてことを、まことしやかに話していた。どこまで本当か知らないが、スニールが心底、ビジャヤ先生の活躍を喜んでいる気持ちがひしひしと伝わってきた。 

明日はビジャヤ先生がヒマラヤ小学校へ凱旋する予定だ。スニールの喜ぶ顔が目に浮かんでくる。


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2009年02月23日

春爛漫

2月23日

バリケード今日はファグン月の黒半月の14日目。シヴァ神を崇める「シヴァ・ラットリ」の日だ。神話によると、この日はシヴァ神とパルバティが結婚した日という。夜にはシヴァ神を崇めるために町の到る所での護摩が焚かれるが、この護摩を焚く薪を買うために、朝から子ども達が道路に立ち、麻紐や竹などを使って通行する車やバイクを止め、小銭を徴収する習慣がある。友達と一緒に通行人からお金を集め、夜には焚き火が出来るのだから、子ども達にとっては、数あるお祭りの中でも最も楽しいお祭りのひとつに違いない。ヒマラヤ小学校の子ども達も大いに活躍していたようだ。

今日はネパールを短期訪問中の友人、ヤッギャ校長、現在、大学の法学部で学んでいる奨学生のリタ、そしてヒマラヤ小学校のラクシミ、ビナと一緒にデオラリ村を目指して歩くことにした。デオラリ村はカトマンズの南部にある山のほぼ頂にある小さな村。僕自身、往診治療でデヴィチョールやトックルマットといった周辺の集落へ泊まりがけで出かけた時など、時間が出来ると足を延ばす村だ。

しゃくなげ予定時間よりも1時間近く遅れての出発となったため、普段は使わない近道であろうと思われる道を歩く事にした。これが幸と出たのか不幸と出たのか、結局、ずいぶんな遠回りとなったのだが、道中にはネパールの国花でもあるシャクナゲが美しく咲き乱れ、心を洗われながらの楽しい道程となった。カトマンズ盆地は春爛漫。ゆったりと時が流れるこの牧歌的な雰囲気こそ、僕にとってネパールらしさを一番感じる瞬間だ。

春これからカトマンズ盆地の気温は一気に上がり、雨乞いの祭りマチェンドラナート、田植え、豊穣を祈る様々な祭りと、一気に時が過ぎていく。慌ただしい日常を忘れ、暫く短い春を楽しんでみたいと思う。


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2009年02月21日

退学

2月21日

現場「あなたの子どもが学校へ来ていないのだが、何かあったのかい」ヤッギャ校長が声をかけると、父親は額の汗を拭いながら「いいえ、別に。わたしは学校へ行くように話しているんだけどね。わかりませんね。」と弁明した。傍にいた母親も相槌を打つように「わたしたちは学校に行くようにって、話してますよ」と答えた。

ヒマラヤ小学校では開校以来、3日間以上続けて学校を欠席した児童宅の家庭訪問(職場訪問)を行っている。今日は土曜日(休日)の午後を利用して、ヤッギャ校長と一緒に先日から欠席の続いている姉弟の家族を訪ねる事になった。

毎回、家庭訪問へ行くと、保護者からは決まって上記と同じような返事が返ってくるのだが、実際には保護者の話と実情に大きな違いがある場合が多い。

案内人保護者と話をした後、水汲みに出かけているという兄弟を探すことにした。小さな村とはいえ、人を探すのは容易なことではない。こんな時、頼りになるのはヒマラヤ小学校の子ども達だ。ちょうど道中で会った子どもたちに手伝ってもらい、2人の姉弟を探す事にした。


暫くすると、子ども達が2人の姉弟を連れてきた。雑談をした後、ヤッギャ校長が姉にしばらく学校へ来なかった理由をこっそり尋ねると、姉は少し寂しそうな表情を浮かべながら理由を話し始めた。姉の話によると両親が新しい仕事(工事現場)を見つけてから朝早くに家を出ていくようになり、洗濯や掃除、水汲みなど、家事の一切を親から任せられたそうだ。先日、家事を済ませないまま学校へ行くと、帰宅してから両親にひどく叱られたという。”学校なんて行かずに働け”と言われたとも、、、、、

その後は叱られるのが怖くて、姉は学校を休んで家事をしているそうだ。姉が行かなければ、まだ幼い弟が学校へ行くはずがない。「お父さんとお母さんには言わないで」という姉としっかり約束を交わし、もう一度、保護者を訪ね、教育の大切さを説くことにした。

児童ある国際支援機関の統計によると、ネパールで初等教育(5年)を卒業できるのは、僅か20%と足らずだという。この統計を初めて目にしたときは、「本当かなぁ」と情報を疑った事を鮮明に覚えているが、実際にヒマラヤ小学校を開校してから、その数字が非常に的確であることを実感する。ヒマラヤ小学校のように完全無償教育を行い、保護者の理解を深めるための様々な活動を続けていても、依然として退学率が高いのだから、他の公立学校なら一体どんな状態なのかは想像に難しくない。

退学者をなくすための特効薬なんて、きっと今のネパールにはないのだろう。僕たちに出来る事は、やはり地道に保護者への理解を深めていく事につきるのだと思う。ヤッギャ校長と一緒に大きなため息をつくと、姉弟を探してくれた子ども達に笑われた。明日からまた頑張りたい。



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2009年02月11日

クマールの作文

2月11日

クマール2ヒマラヤ小学校から初めての卒業生を送り出すにあたり、出来れば卒業アルバムか文集のような物を作りたいと考えている。決して立派なものではなくても、子ども達が一緒に夢を描き、追いかけた5年間の軌跡を記録として残す事は大きな意義があると思う。

先日、5年生に「ボクの、わたしの未来」という題で、文集に載せる作文を書いて貰うことにした。作文というのは普段なかなか口には出せない想いや気持ちを表現するためにとても良い手段だと思う。これまでにも何度か作文を書いてもらった事があったが、その度に子ども達の意外な一面を知る事が出来た。今回の5年生の作文も彼らの意外な心の一面がみられるのではないかと、とても楽しみだった。

悪戦苦闘しながらも18名全員が作文を書きあげた。作文を回収した後、毎日、時間を見付けては5年生が精いっぱい書いた作文に目を通しているが、どの作文もなかなか面白い秀作ぞろいだ。特に今日、読んだクマールの作文は、母親を思うクマールの素直な気持ちが書かれていてとても良かった。ヒマラヤ小学校開校以来のガキ大将、クマールの作文を一部、紹介したいと思う。



「ぼくの、わたしの未来」クマール・ミザール


僕は将来、お医者さんになりたいと思っている。お医者さんになって病気で苦しむ人や貧しくて病院へ行けない人、ヒマラヤ小学校の小さな子ども達、そして僕のお母さんを助けたいと思っている。

「将来、お医者さんになりたい」と僕が言うと、村の人達から笑われたことがあった。あの日以来、僕は人前では「将来は兵隊なになる」と言うことにした。兵隊なら僕のような貧しい家庭の子でもなれると思う人が多いので、それから笑われる事はなくなった。でも、僕はいつも心の中で「お医者さんになりたい」と思っている。

村の人達に笑われた日、お母さんにその事を話すと、お母さんは「クマールなら立派なお医者さんになれるよ」と言ってくれた。僕はとても嬉しかった。お母さんは苦労しているので、時々、風邪をひいたり、体が痛たそうにしていることがある。そんなお母さんを助けることが僕の夢だ。お母さんが病気になったら、絶対に治してあげたい。だから僕はお医者さんになりたいと思う。




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2009年02月10日

5年後、10年後の青写真

2月10日

ヒマラヤ小学校が開校して間もなく5年目を迎えようとしている。過ぎてしまえばあっという間の5年だが、一つひとつの出来事を思い出すと、やはりそれなりに長い道のりであったことを実感する。

卒業生この5年間を一言で言えば、まさに“失敗の連続“だったように思う。右も左も分からないままで始めた学校運営だから、失敗して頭をぶつける事など当たり前だったのだと思うが、これまで失敗を繰り返しながらも、何とか活動を続けてこられたのは、大勢の支援者の方々に精神面で支えられた事や、教育に関する専門知識を持った方々にご協力いただいた事が本当に大きかった。改めて感謝の気持ちでいっぱいだ。(写真:今年、ヒマラヤ小学校から卒業する予定の子ども達)

もちろん、この5年間の活動は決して失敗ばかりだった訳ではなく、良かった点も幾つかあると思う。その中の一つは、ヒマラヤ小学校が開校以来、ずっと小さな学校であり続ける事が出来たことではないだろうか。”一人ひとりの児童に目が行き届く教育”という目標を掲げ、それに沿って続けてきた様々な活動は、少しずつだか成果を出しつつある。

児童今でも時々、支援者の方から児童数を増やすべきではないか、という切言を頂く事もある。毎年、入学を希望する子供達が増えている現状を考えれば、確かに児童数を増やすことも一つの選択肢であることは間違いないが、小さな学校、ひとつの家族のような学校だからこそ出来る活動の意義は、今のヒマラヤ小学校にとって、とても大きいものだと思う。

開校から5年目を迎える今年、僕なりに5年先、10年先の青写真をしっかり描いてみたいと思う。





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2009年02月08日

少年カラテカ達

2月8日

空手1「押忍!!」稽古場に行くと、空手部の子ども達が大きな声で挨拶をしてきた。僕も透かさず「押忍」、と子ども達に負けない大きな声で返す。稽古の始まる直前の校庭。すっかりおなじみとなった習慣だ。少年カラテカ達の気持ちは既に高ぶり、背筋をピンと伸ばし、引き締まった顔つきで師範のビジャヤ先生の号令を待っている。校庭いっぱいに広がった緊張感。僕はこの雰囲気がとても好きだ。


空手2ヒマラヤ小学校で空手教室が始まって半年余り、子ども達の大きな変化を実感している。特に先月、初めて空手大会に出場してからというもの、少年カラテカ達の熱意は一気に高まり、稽古中の表情にもにも顕著に現われている。僕自身も稽古を見ながら頷く回数が多くなった気がする。ヒマラヤ小学校空手部の麒麟児、スニールなど以前にも益して空手熱を高め、やる気十分だ。相変わらず実戦は苦手のようだが、小さな体から出す闘志や覇気はかなりのもの。

教室守衛最近、少年カラテカ達の授業中の様子にも前向きな変化が見られるようになった。先日、ある先生が病院へ行くため、2年生のクラスが自習になった時の事だった。2年生ということもあり、時間が経つにつれ徐々に教室がざわめき始め、一人ふたりと教室を飛び出してトイレへ行くようになった。これはちょっとまずいと思い、2年生の空手部員の一人に、教室から児童が勝手に出ないよう門番を頼む事にした。その空手部員、「押忍!!」と一声、挨拶したあと、写真の通り本格的な門番として入口で警戒にあたり、見事にざわめくクラスを統制してくれた。その自信満々の表情は実にすばらしかった。こうして何事にも一本木に取り組む姿は、空手の稽古から身に着いたものだろう。嬉しい発見だ。

空手家廊下しかし少年カラテカ達、学業の方はどうも苦手なようで、4年生の教室の外では宿題を忘れたカラテカ達が4人も、耳を摘んだまま片足で立たされていた。両立は難しい。でも勉強なんて2の次。今はとにかく大好きな空手にとことん必死になれば、それでいいのだと思う。がんばれ少年カラテカ達!!



教室内 制服にも帯を巻いて、気合十分。



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2009年02月07日

Unity is Strength

2月7日

今日はパタン市内のカスピアン学校でアプスベン合同運動会の閉会式と表彰式が行われた。約1か月余りに渡ったアプスベン初の合同運動会は大成功に終わり、関係者の表情は充実感で満たされていた。ヒマラヤ小学校の児童も大活躍、マラソン大会で2位と3位、バドミントンでは2位と、合計3つのメダルを獲得した。子ども達の活躍に改めて弥栄を贈りたい。

ヤッギャ校長閉会式典ではアプスベンの副会長を務めるヤッギャ校長のスピーチが行われた。スピーチの中でヤッギャ校長は、ラクシミの活躍を引き合いに出しながら「子ども達の隠れた才能を見つけ出す事こそアプスベンの使命です。ヒマラヤ小学校5年生のラクシミは、アプスベンの歌唱コンテストで優勝した事がきっかけとなり、大きなチャンスをつかむ事が出来ました。その後のCD制作にあたっては、アプスベン関係者の大きな協力を得ました。(中略) 見つけ出した子ども達一人ひとりの才能をアプスベンが一丸となって応援する事で、必ず大きな成果を得られと思います。その信念を忘れる事無く活動を続けていけば、アプスベンは必ず社会に認められると考えています。」と、話していた。僕は思わずカメラを置いてヤッギャ校長に大きな拍手を贈った。

振り返ってみると、ラクシミの活躍はアプスベン主催の歌唱コンテストでの優勝が全ての始まりだった。もし歌唱コンテストがなければラクシミの才能は表に出る事もなく、単に“歌が好きな女の子”だけで終わっていたかもしれない。ラクシミのCD制作が決まったのもアプスベンの二タ会長のご主人であるラマ先生の助言が大きかったし、制作にあたってはラマ先生はじめアプスベン関係者の大きな協力を得ることで実現できた。

メダルラクシミの活躍をヒマラヤ小学校だけでなく、アプスベン全体の大きな成果の一つとして捉え、関係者と喜びを分かち合おうとするヤッギャ校長の姿勢を僕は高く評価したいと思う。これからアプスベンの様々なコンテストを通して、才能を大きく開花させる子ども達もたくさん出てくるだろう。そんな時こそ大きな視野に立って、アプスベン一丸となって一人ひとりの子ども達をしっかり応援していくべきだと思う。アプスベンならきっとできると確信している。

ふと空を見上げると、“Unity is strength”というアプスベンの標語が書かれた大きな旗が気持ちよさそうに風に揺れていた。これからもアプスベンの活動に目が離せない。





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2009年02月06日

夢に繋がるゴール

2月6日

今日はアプスベン運動会の最終日。パタン市内の広場でサッカー大会・決勝戦が行われ、決勝戦に勝ち進んだ2チームに属している5名が、ヒマラヤ小学校から出場した。

先日のブログでもお伝えしている通り、今回のサッカー大会は学校対抗戦ではなくアプスベン加盟校の児童が混ざって結成した計6チームによる交流戦となった。学校対抗戦ではないため少々、面白みに欠ける点もあるが、児童同士との交流が深まったリ、個々のプレーをじっくり見ることが出来た事は良かったように思う。

す1決勝戦ともなると流石に実力も拮抗しているようで、両チーム無得点のまま後半戦に入った。ヒマラヤ小学校から出場した5年生のクマールが小さい体でかかんにゴールを攻めたが、なかなか点を奪う事が出来なかった。クマールは何でも器用にこなすのだが、何時もあと一歩何かが足りないようだ。せっかくの多才な能力を生かしきれていないのは本当に残念だ。詰の甘さを克服する事が今のクマールの課題かもしれない。

試合は平行線のまま進み、後半、残り2分を切った時だった。誰もが試合は引き分けで終わると思っていた時、ヒマラヤ小学校から出場した5年生のソロージュが、左サイドから見事なボレーシュートを放ち、ゴールを決めたのだ。ボ―ルは2本の竹で作ったネットのないゴールを超え、遥か遠くの野原まで飛んでいった。

スロージュはヒマラヤ小学校の中でも指折りの悪戯好きで知られている。根っから明るい性格なのだが、やる事なす事、全てが中途半端で何事もあきらめやすい性格だ。いわゆる“男の意気地”に欠けている児童だ。スロージュについては、空手のビジャヤ先生も「なんとか卒業までにソロージュに自信を持たせたい」なんてことを話していたところだった。

す2今日、スロージュが見せたスーパーボレーキック。誰もが引き分けを確信しても尚、最後まであきらめずゴールを狙ったスロージュ執念。初めてスロジュが意気地を見せてくれた瞬間だった。

ソロージュだって、やれば出来るのだ!!今回のゴールをがきっとスロージュロを大きく成長させるだろう。彼の活躍を皆で祝いたい。




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2009年02月04日

ビナの変化

2月4日

「わたしはね、やっぱりヒマラヤ小学校の先生になりたいの」
3階校舎の通路の隅っこで、5年生のビナ(17歳)が照れ笑いを浮かべながら、僕にそっと耳打ちをしてきた。

ビナ1長い間の困厄から抜け出したのか、以前の思い詰めたような表情が嘘のように最近、ビナがとても明るくなった。休みがちだった学校にも毎日、登校するようになり、学校の活動にも率先して参加している。先日、開催したゲストの歓迎会でも自ら手を挙げて司会を務めたり、またアプスベンの運動会や空手大会では殆どすべての競技会場に出向き、選手のマネージャー役を務めるなど、ビナの大きな変化に僕たちは一驚している。いや、驚いているというよりも、ビナが明るく前向きになった事が僕たちは本当に嬉しいのだ。

ビナは家庭の問題によって、これまで何度も退学の危機に直面したことがあった。様々な問題が起こる度に、僕たちはビナを学校に踏みとどようと必死になり、時にはもう駄目かもしれないと諦めかけた事もあった。ビナが卒業まで漕ぎ着けた事だけで僕たちにとっては大きな喜びなのに、最近、そのビナがめっぽう明るくなったのだから、天にも昇る気持だ。

ビナ2ビナは成績がとても優秀で、将来は学校の先生になりたいという夢を持っていた。ビナの才能を生かし、夢を実現させるためにも、進学して中高等教育を受けた方が良いだろう、というのが僕たちの一致した考えだったのだが、ビナ本人は先生になりたいと夢を描きつつも、一日も早く家から出て自立したいという気持ちが強いようで、最近まで進学よりも職業訓練を希望していた。

そんなビナが「学校の先生になりたい』しかも「ヒマラヤ小学校の先生になりたい』と言い出したのだから、こんなに嬉しい事はない。もちろん進学でも、職業訓練でも、今のビナならなんだって乗り越えられるだろう。でも、もしもビナが本当に先生となって、ヒマラヤ小学校に帰ってきてくれたら、、、、、、、ぜひ、そうなって欲しいものだ。僕たちの秘かな夢として心の奥にしまいつつ、これからもビナへの応援を続けていきたいと思う

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2009年02月02日

自由をください

2月2日

4c2fd459ビンドゥの死は、僕がネパールで活動を始めてから最も悲しい出来事となった。悔やんでも仕方ないと分かっていながら、もっと気をつけていれば、もっと努力していれば、救えた命だったのかもしれないと思うと、悲しみがぐっと込み上げてくる。ビンドゥの死は単に天命によるものだけではなく、世俗的な問題も絡んでいるように思えてならない。そう考えると、僕たちの活動はまだ道半ばであることを痛感する。

ビンドゥもまた、多くの少女と同じく”愛されている”という確信を持てない女の子だったように思う。ビンドゥの死の1日前、「今日はずっと病院にいてほしい」と言うビンドゥに、父親が「弟が寂しがるから帰る」と答えると、ビンドゥは「もう二度と来ないで欲しい。私が死んでもほっといて欲しい」と言ったそうだ。父親が涙を流しながら「もっとビンドゥを愛すべきだった」と後悔の念を語っていたが、ビンドゥが残したメッセージはあまりにも大きい。。。。。。。。。

僕たちはビンドゥが小さな体で精いっぱい残したメッセージをしっかり受け止め、これからの活動に生していかなければいけない。ビンドゥの死を決して無駄にはしたくない。“ビンドゥは長い苦しみから抜け出し、自由の身になったのだ”いつかそう思える日が来る事を僕たちは信じている。


ラビンドラナート・タゴール詩

わたしに自由をください
野を飛ぶ小鳥のように 小道を行く旅人のように
わたしに自由をください 
大雨のあと水があふれるように
見知らぬ土地をめざして 突進する風のように




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2009年02月01日

「サヨナラ」

2月1日

ビンドゥ12年生のビンドゥが死んだ。
小さな体で必死に病と闘かったビンドゥの努力、そして回復を願う僕たちの思いは、「死」という運命によって脆くも踏みにじられてしまった。

ビンドゥはヒマラヤ小学校の開校と同時に入学した児童だ。人懐っこく、底抜けに明るい性格で誰からも愛された子だった。入学したころは、一つ上のクラスで学ぶ姉のインドゥから片時も離れようとしないビンドゥを引き離すのに苦労した。あの頃は姉のインドゥと引き離そうとして、毎日のようにビンドゥを叱って泣かせていた事を覚えている。それでも帰り際には必ず、日本語で「サヨナラ」と言って、笑顔で手を振っていたのがとても懐かしい。入学して数か月が過ぎ、ようやく姉のインドゥから離れる事ができるようになり、ビンドゥが楽しそうに授業を受けている姿を見た時は、本当に嬉しかった。

ビンドゥ2ビンドゥはチョコレートが大好きな子だった。ある日、支援者から頂いたチョコレートを子ども達に配った時、こっそり一つ余分にあげると、ビンドゥはとても喜び、翌日、お礼に小さな野花をプレゼントしてくれた。弁当箱にトウモロコシが沢山入っていると、嬉しそうに弁当箱を振って音を立てながら「こんなに入っているよ」と、よく自慢してきた。そんな時は必ず、弁当を持っていない友達に一握りにトウモロコシを分けしていた。ビンドゥはそんな優しい子だった。

ビンドゥの思い出は語りつくせないほど沢山あるが、今、こうしてビンドゥの事を考えると、やはり、あの愛くるしい笑顔の事を真っ先に思い浮かべる。ビンドゥの笑顔は、万人を幸せにする力があった。もちろん、さびしそうな表情を浮かべる事もあったが、そんな時も、目が合うと必ず二コリと笑顔を返してくれた。

ムナビンドゥの夢は先生になることだった。ムヌ先生に憧れ、「将来はムヌ先生のようにダンスの上手な先生になるんだ」と、よく言っていたビンドゥ。その夢はとうとう叶う事はなかった。でも、きっと今頃は天国で大好きなチョコレートをたくさん食べながら、憧れのムヌ先生を目指して頑張っているに違いない。いつかビンドゥが素敵な先生になって、ヒマラヤ小学校に帰って来てくれる事を僕たちは待っている。

笑顔と優しさを何時も僕たちに与えてくれたビンドゥ、本当に、本当にありがとう。そして「サヨナラ」。







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