2008年04月

2008年04月27日

ビナの苦しみ

4月27日(日)

今日は長らく学校を休んでいた5年生のビナが元気な姿で登校して来て、ヤッギャ校長、ビディヤ先生らと共に安堵の胸を撫で下ろした。

実はビナには過去に何度か退学の危機があるため、長期休みになると最も気になる児童の一人だ。春休み中、時間を見てはビナをはじめ気になる児童の家を訪ねてみたが、ビナの家では何時も同居する親戚から「ママ(母方の叔父の家)に出かけている」という返事が返って来るだけで、結局、春休み中に一度もビナの姿を見かける事はなかった。気になりながら春休みが明け、20日の新学期の日、学校に着くと真っ先に5年生の教室を覗いてみたが、予想通り教室にビナの姿はなかった。

ネパールでは母方の叔父の事をママ(mama)と呼び、ママは自分の姉妹の子ども(姪や甥、ネパール語でバンジBhanji(姪)、バンジャBhanja(甥)と呼ぶ)を大切にする習慣がある。この習慣については諸説あるが、姉妹の子ども達を大事にする事は、ママにとって神を敬う事と同じ意味があるようだ。特にヒンドゥ教の強い地域ではママがバンジャやバンジ(姉妹の子ども達)の足元に額づいて礼をする習慣まである。それほど、ママにとってバンジャやバンジは大事な存在なのだ。

当然、子ども達は自分を大事にしてくれるママの事が大好きで、ヒマラヤ小学校でも休み前になると“休みの間はママの家に行く”と、嬉しそうな表情を浮かべる子を見かける事も多い。ビナもママから大事にして貰う様で、これまでにも何度か、ビナが嬉しそうにママの事を話している姿を見かけた事があった。

そんな大好きなママの家に行っているのだから、別れが辛くて2日、3日、学校を休む事だってあるだろう。しかし今回は既に3週間以上もママの家に入り浸りで、しかもヒマラヤ小学校に通うビナの従兄弟達から「ビナはもう学校に来ない」という話を耳にしていたので、このままビナが学校に来なくなるのでは、という不安が募っていった。

ビディヤ先生25日の放課後、丁度、ヤッギャ校長とビナの事を話していると、ビディヤ先生から「ビナと会ったから直ぐに来て欲しい」と電話が掛かってきた。急いでヤッギャ校長と村のバス停に向かうと、ビナが寂しそうな表情を浮かべたまま、ビディヤ先生に肩を抱かれて立っていた。傍にはビナの母親の姿もあった。

ビナは俯いたまま暫く黙り込んでいたが、ビディヤ先生の優しい問いかけに少しずつ口を開き始め、父親の事でとても苦しんでいる事を告白した。

ビナビナの家族は20人以上の親戚と共に同じ家で暮らしているが、ビナの父親は定職を持っていないため、家の中で肩身が狭い思いをしているという。教育を受けていないため出来る仕事も限られてしまい、また所属カーストの職業でもある精肉の仕事を始めたくても資金を準備できず、なかなか上手くいかないようだ。

元々、大人しい性格の父親だったが、仕事がないことでイライラしてしまい、毎日のように酒を飲むようになったそうだ。酒を飲むと人が変わったように暴力的になり、母親やビナに暴力を振るうようになったという。ビナが特に心を痛めたのは、酔っ払った父親が母親を殴り「お前が呪われているから、娘を産んだのだ。家から出て行け」という罵声を浴びせたことだという。多感な時期を迎えているビナにとって、何よりも辛い言葉だったに違いない。父親の発した言葉によってビナがどれだけ傷ついたのか、容易に想像できる。

夕方からヤッギャ校長の自宅で、両親を交えて話し合いを行なうことにした。いろんな事が話し合われたが、最終的には、ビナの父親が始めたいと考えている精肉の仕事のため、ヤッギャ校長が自ら保証人となって村の農協から資金を融資できるようにする事や、父親は酒を止め真面目に仕事をすること、家族に暴力を振らない事などを約束して、話し合いは終わった。

その後、ヤッギャ校長はビナを自宅へ返さず、「今日はママの家に泊まって、今後の事をゆっくり考えなさい。お父さんの事を信じたいと思うなら、村に帰ってきなさい。学校ではみんなが待っている」とだけ言って、ビナをママの家まで送っていった。

ビナ教室今日、ビナは学校へ来た。まだ完全に笑顔を取り戻した訳ではないが、ビナなりに父親の事を信じてみようと考えたのだろう。今回の一件を通して、改めて卒業生を送り出す事がいかに難しく、毎日が綱渡りの連続である事を改めて思い知った。それでも、ヤッギャ校長やビディヤ先生のような“本気の先生”がいるかぎり、どんな事があっても必ず全員が卒業できると信じている。




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2008年04月23日

レコーディング終了!!

4月23日(水)

ラクシミラクシミのレコーディングが無事、終了した。まずは今回のプロジェクトにご協力頂いた方々をはじめ、温かい応援メッセージをお寄せ頂いた皆さんに心から感謝の気持ちをお伝えたい。

大勢の人たちの協力によって一つの事が成し遂げられるという事を、ラクシミ自身がしっかり学んでくれた事が、今回のプロジェクトの最大の収穫だったように思う。レコーディングを終えた後、指導してくださったビナヤ・ラマ先生やスタッフから暖かい祝福を受けると、ラクシミは感極まり目を潤ませていた。14歳のラクシミが精いっぱい歌った唄を、ぜひ大勢の人に聴いて頂きたいと思う。

僕は普段から音楽とは殆ど縁のない生活をしているので、今回、レコーディングの責任者として準備を進める事には多少の不安もあったが、ラクシミを応援してくださる支援者の皆さんの暖かい声や、ラクシミ自身の熱意にも励まされ、なんとかその役目を果たすことが出来、今はとても安堵している。練習から録音終了までの全工程をラクシミに付き添った事で、ラクシミの心の変化を間近で見られた事は、僕にとって大きな財産となった。

ラクシミの作った原曲のイメージと少しでも異なると、音楽ド素人の僕が口うるさく注文をつけるのだから編曲者もかなり嫌気が差したと思うが、それでも思い通りになるまで何度も編曲をやり直してくれたのは、ラマ先生が中に入ってくださったからだ。ラマ先生の理解がなければ、今回のレコーディングはおそらく完成出来ていなかったと思う。ラマ先生には本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。レコーディングが終わった後、ラマ先生が「キミ達と仕事が出来て、楽しかった。また一緒にやろう」と言ってくださった時は、本当に嬉しかった。

今回、全5曲の内、4曲は個人的に満足のいく内容となった。特に一番力を入れた「がんばれネパール人」に関してはとても満足している。「ねがい」はどうして編曲が合わずアカペラでの録音となったが、結果的には良かったように思う。歌唱コンテストで優勝した「遠くからナマステ」については、最後まで何度も編曲をやり直したが、完全にイメージ通りの物が出来なかったので、最終的には全てラマ先生に委ねる事にした。この曲については、いつかリミックスをしたいと考えている。


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2008年04月22日

制服支援

4月22日(火)

制服ヒマラヤ小学校では2年に一度、制服を支給している。今年は新入生の他、04年と06年に入学した児童も含め、73名の児童へ制服を支給する事が決まっている。幸い支援者の方々から制服支援を頂く事となり、今年も何とか全員へ制服を支給することが出来そうだ。

制服については予々、保護者に対しても出来るだけ個人で購入するよう呼び掛けている。児童の多くが制服を、学校以外での私生活でも使い、所謂“着たきりスズメ”の状態なので、2年に1度の支給では間に合わない事が多い。特に元気いっぱいの男子は、制服の所々に継ぎ接ぎが出来、まるでフランケンシュタインのようだ。これも勲章だと思えば可愛らしいが、保健・衛生のためにも毎日、制服をきちんと取り替える事が望ましい。

わんぱく一昨日の新学期、ある2年生の児童が真新しい制服を着ていたので訊ねて見ると、母親が新しい制服を買ってくれたのだという。それも3年間、コツコツと貯めたお金で買ってくれたそうだ。正直、初めての事で驚いたが、もしかすると開校当時から続けている「福祉基金」(相互扶助と預金の大切さ学ぶ事を目的に、児童が毎月5ルピーずつ預けるもの。卒業時に全額を返還。貧困家庭には子ヤギを支給して経済的な支援を行ったり、病気や怪我といった場合にも支援を行う)を通して、母親がお金を貯める事の大切さを学んでくれたのかもしれない。4年間の成果というのは、見えないところでも着実に出ている事を改めて実感した。




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2008年04月20日

優しさと厳しさ

4月20日(日)

今日から学校が始業した。毎年、始業日は昨年使った教科書とノートの回収作業から始まる。ヒマラヤ小学校では前年に配布した教科書とノートを全て返還した児童だけが、新しい教科書とノートを貰える仕組みになっている。また新しい教科書や学用品を配布する時は、受取りに保護者のサインを義務付け、万が一、教科書や学用品を紛失した場合には、保護者が負担する事にしている。少し厳し過ぎるのでは、と思う方もいるかもしれないが、無償教育を実施するためにはしっかりとした規則を設け、徹底的に物の管理をする事がとても重要だ。

僕自身も学校を開校したばかりの頃、教科書を失くした子や鉛筆を失くした子を見ると、「鉛筆1本くらい、教科書1冊くらい、いいじゃないか」という甘い考えを持っていた。しかし、弟や妹にあげようと失くしてもいない鉛筆を失くしたと言ってくる子がいたり、中には横流しを目的に教科書を紛失したと言ってくる保護者もいる現状を目の当たりにし、責任を一切与えない一方的な優しさだけの支援が、受益者に“失くせば、新しい物を貰えるだろう”“やって貰えるだろう”という考えを生み、“支援が当たり前”の状況を作ってしまう事に気が付いた。支援が当たり前になってしまえば、僕達が目指している“卒業生の自立”なんて実現できる筈もない。

優しさと厳しさの線をきちんと引くことが、受益者と支援者に対する僕達の最大の責任だと思う。その責任を果たしてこそ、有意義な支援活動が展開できるのではないだろうか。



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2008年04月17日

寺子屋が繋ぐ心

4月17日(木)

小川寺子屋往診の途中、小川武明寺子屋を訪ねると、昨年ヒマラヤ小学校へ入学した小川寺子屋の卒業生シーマとビモラ姉妹が、今年ヒマラヤ小学校へ入学する後輩たちに一生懸命、学校について話をしていた。

傍でこっそり話を聞いてみると、授業の事や先生の事、ブランコやドッヂボールの事、その他にも様々な学校行事について話をしていた。2人の熱弁からは時々、こんなことも喜んでくれていたのか、と感じる点も多く、聞いていてなかなか楽しかった。中には少し色づけをしている点もあったが、新入生を精いっぱい励まそうとする先輩としての思いやりが感じられて可愛らしかった。話を聞いた新入生にとっては、学校がバラ色の夢のような場所に思えたかもしれない。

新入生にとっては、入学を目前に控えた今が一番、不安を抱える時期かもしれない。そんな時、同じ寺子屋で学んだお姉さん達が学校にいる事はとても心強いのではないだろうか。シーマやビマラ達にとっても、後輩の入学は“お姉さんとしての自覚”を持つ切欠になるだろう。新学期が本当に楽しみだ。



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2008年04月16日

心地よい気候

4月16日(水)

気温が上がっているため、冬場に比べて早朝の往診がずいぶん楽になった。早朝は車の数も少ないため、排気ガスや舞い上がる砂塵、耳が痛くなるようなクラクションの騒音に悩まされなくて済むので、それだけでも快適だが、早朝の心地良い風に当たると気分も乗り、治療にも自然と力が入る。

朝夕の冷え込みが厳しい冬場はどうしても患者の状態も悪くなりがちで、治療効果も上がりにくい。その点、今の時期は日中の強い日差し以外はとても過ごしやすく、治療効果を上げるには最適だ。

これから雨期に入り長雨が続けば、どうしても患者の状態も悪くなりがちだ。特に関節に痛みを抱えている患者にとっては雨期の長雨はきつい。今の時期にしっかり治療効果を上げ、これから迎える雨期に備えたいと思う。




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2008年04月15日

ビデオ制作

4月15日(火)

ラクシミのレコーディングの日程がほぼ決まり、練習も大詰めを迎えている。ビナヤ・ラマ先生の指導の元、一生懸命練習を続けてきた甲斐あり、ラクシミは自信を持ち始めているようだ。急遽、レコーディングに参加する事になったナニタも必死に練習を続けているので、何とかレコーディング本番までには間に合いそうだ。明日も練習が続くが、満を持して本番に挑んで欲しい。

昨年の秋、「ヒマラヤ小学校〜子ども達の夢と共に〜」と題したヒマラヤ小学校の紹介ビデオを制作し、大勢の方に御覧いただいた。第一作目という事でヒマラヤ小学校を知っていただくための簡単な内容だったが、これまで言葉だけでは伝えきれていなかった多くの部分が、映像を通して伝わった事を強く実感した。現在、その2作目となる作品を制作中だが、今回もなかなか企画と構成が纏まらず苦戦している。

当初、他の村から移住してきた3名の児童とその家族について取り上げる予定で撮影を進めていたが、途中からいろんな迷いが出始め、作業は中断したままの状態だ。ビデオを通してヒマラヤ小学校の何を伝えるべきなのか、そして、どのように伝えるべきなのか、すっかり頭の中が真っ白の状態になってしまった。

ビデオ撮影丁度、同じ頃、ラクシミの自作曲をレコーディングするという夢の企画が纏まり、言い出しっぺの責任者として練習日程や伴奏者の調整、編曲者との打ち合わせ等、ラクシミの練習も含めてレコーディング作業に全て付き添うことになった。レコーディングの準備が進むにつれ、期待に胸を膨らませたり、不安に駆られたりしながら、一歩ずつ成長しているラクシミの姿を間近で見ていると、ラクシミという一人の児童の成長の記録を通して、ヒマラヤ小学校の何かを伝えられるのではないか、という気持ちが高まってきた。

まだ完全に決めたわけではないが、レコーディングによって複雑に変化するラクシミの心や成長を紹介できればと考えている。なんとか頑張ってみたい。


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2008年04月13日

チャンパデビ参り2日目

4月13日(日)

朝5時に宿を経ち、チャンドラデビィ山頂を目指した。子ども達は全く疲れを知らず、軽やかな足取りでどんどん先に進んで行った。少しでも目を離すとあっという間に距離が開いてしまい、引率する僕等は子ども達に追いつくことに精いっぱいだった。あれだけ遊んでも疲れないのだから、子ども達の元気さには驚くばかりだ。

道中の休憩場所では、へたり込む僕達を尻目に、子ども達は周辺の木々に登って遊んでいた。名前を呼ばれて見上げると、20メートル以上もある大きな木の天辺まで登っていたりして、一瞬ハッとする事もあったが、元気な自然児が水を得た魚のように自由気ままの遊ぶ姿を見る事は本当に楽しかった。

クマールもスモンもラジャンも、みんなヒマラヤ小学校を代表するワンパク小僧。何事にも捉われない“自由な環境”こそ、彼らには一番必要で、そのような環境があれば、彼らはどんどん成長していくのではないだろうか。子ども達が思いっきり遊んでいる姿から、自立支援のヒントが見えた気がした

山頂歩き始めて4時間、チャンドラデビィ山頂にたどり着いた。昨夜の大雨の後ということで今日は空気も澄み渡り、ランタンやガネッシュヒマールはもちろん、遠くマナスルやアンナプルナまで真っ白な美しいヒマラヤを一望することが出来た。


展望みんなでチャンパデビィにお参りした後、ヒマラヤ小学校が展望できる場所で休憩。真っ赤に咲き誇る石楠花の傍で、ヒマラヤ小学校を眺めながら子ども達と一緒に掛け合い歌(ドホリ)を歌い、楽しい時間を過ごす事が出来た。*写真:帰り道の八ティバーンからヒマラヤ小学校を望む。写真をクリックしてください。

子ども達と一緒に行った初めてのチャンパデビィ参り。子ども達の元気さを改めて思い知った1泊2日の小さな旅となった。また来年も5年生を連れて、チャンパデビィ参りに行って見たいと思う。それまでに、へたらないだけの体力を養わなくては。


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2008年04月12日

チャンパデビィ参り

4月12日(土)

山歩きカトマンズ盆地の南西部に「チャンドラデビィ」という標高2249メートルの山がある。ヒマラヤ小学校からも丁度、正面に眺めることが出来る高い山だが、山頂には「チャンパデビィ神」を祀った祠があり、毎年、ネパール暦(ビクラム暦)の新年(西暦の4月中旬頃)には大勢の参拝客で賑わう場所だ。

毎年、ネパール暦の新年が近づくと、必ずと言っていいほど子ども達からチャンパデビィを参拝したい、という要望が出てくる。これまでなかなか時間の都合がつかず、一度も実現できていなかったのだが、今年は制憲議会選挙の関係で14日まで休日となったので、山積している雑務を放り出して、新5年生、6名を連れてチャンパデビィ参りに行く事にした。

チャンパデビィ参りは夜中に登って、早朝にお参りをするのが慣わしで、松明を持って歌を歌いながら夜の山道を歩いたり、山腹でキャンプをしたりして、家族や仲間と夜通し楽しむこともチャンパデビィ参りの楽しみの一つだ。

もちろん子ども達は参拝より、この“夜遊び”が主目的なので、今回は子ども達の期待にしっかり応えるべく、ヤッギャ校長、モンゴル先生、写真家の優さんにも同行してもらい、泊りがけで山に登ることにした。子ども達にとっての外泊はちょっとした冒険のようなもの。出発前からみんな相当、そわそわしていた。

午後4時頃にヒマラヤ小学校を出発して、今回の登山口となるチベット仏教寺院が立ち並ぶ小さな町「ファルピン」へ向って、畦道をてくてくと歩いた。歌姫のラクシミが同行したお蔭で歌声が絶えず、とても賑やかな往路となった。途中、休憩した高台から眺めた一望千里の麦畑が本当に綺麗だった。見慣れた麦畑も場所を変えると、まったく違った景色に見えてくるから不思議だ。綺麗な景色を眺めていると、自然と人心地がついた。 

今日は学校から4時間ほど歩いたチャンドラデビィの中腹で野営をする予定だったのだが、「ファルピン」に着く前に雷を伴った大雨が降り出したため、急遽、道中の民家の軒端を借りて一夜を明かすことにした。家主の暖かい善意を受け、軒先だけでなく1階の物置小屋も借りることが出来たことは、防寒具をほとんど持っていなかった僕たちにとっては幸運だった。

ヤッギャ先生踊り暫くすると雨がやんだので、庭に焚き火を熾し、みんなで料理を作って食べた。時々、雨上がりの夜空を見上げながら、焚き火を囲んで子ども達と食べる夕食は格別に美味しかった。食事が終わるとラクシミの歌に合わせて、ヤッギャ先生が踊り始めた。こんな時、間に合うヤッギャ校長の存在は本当に大きい。今回、ヤッギャ校長に同行をお願いした理由は、実はここにもある。ヤッギャ校長の素晴らしすぎる踊りに乗せられて、子ども達も踊りだし、終始、笑い声の絶えない楽しい夕べの一時となった。

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その後、午後10時頃に就寝。ヤッギャ校長、モンゴル先生、優さんの3人は気疲れもあってか、直ぐに高鼾を立てて寝はじめたが、夜遊びを楽しみにしていた子ども達の気持ちが簡単に収まるわけがない。僕が起きている事に気付くと、子ども達が寝ていた1階の物置小屋からぞろぞろ外に出てきて、焚き火を熾し始めた。

焚き火それから暫くの間、再び火を囲みながら子ども達といろんな話をしたが、僕にとっては貴重な時間となった。今回の山登りに参加したのは、来年、卒業を予定している新5年生ばかり。みんな一様に卒業後、友達と離れ離れになってしまう事が辛いと、寂しそうに語っていた。これまで学校という一つの場所で、様々な苦楽を分かち合ってきたのだから、そう思うのは当然のことだと思う。こんな時、気の利いた言葉を掛けられたら良いのだが、子ども達の少し寂しそうな顔を見ていると、思わず言葉に詰ってしまった。

暫くすると、いたずら小僧達が寝ているヤッギャ校長、モンゴル先生、優さんの顔に、焚き火のススで目や鼻ひげを書いたり、虫をポケットに入れたりして、悪戯が始まった。特に先生達の体に“児童を叱りません”“宿題を出しません”などと書いた紙切れを貼り付けたのは傑作だった。

悪戯を仕切ったクマールに、もし僕が寝ていたら何と書くつもりだったのか尋ねると、「大祐さんには悪戯はしないよ」とニコリとして嘯いていた。起きていて本当に良かった。

子ども達の長い一日は終わり、ようやく静かな夜が訪れた。焚き火の傍に敷いた筵の上に横たわり、こよなく透き通った夜空を眺めながら学校の青写真を描いていると、結局、眠れないまま夜が明けた。








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2008年04月10日

寺子屋の若い先生達

4月10日(木)

往診を終えた後、コカナ村の「ヒマラヤ・マリア・コカナ寺子屋」を訪ねた。寺子屋も開校から1年が過ぎようとしているが、これまで予想以上に良い成果を出すことが出来た。子ども達の成長はもちろん、教鞭をとっているサンギタさんの明らかな成長が見られた事は、僕達にとって何よりも嬉しいことだ。1年目という一番難しい時に50人の子ども達をしっかり纏められた事は、サンギタさんにとっても大きな自信に繋がったのではないだろうか。

寺子屋こども今日、寺子屋を訪ねた時には、丁度、リレー方式でクイズに答えながら単語を覚える授業が行なわれていた。これはサンギタさんが自分自身で考え出した教え方の一つで、子ども達からの反応がとても良く、毎回、授業が始まると子ども達から“クイズ”“クイズ”という声が上がって来るそうだ。自分で考えて始めた事が、子ども達から良い反応として返ってくると、サンギタさん自身も活動が楽しくなり、当然、やる気や自信も出てくるのだと思う。

寺子屋の教員を担当しているのは、主に教師を目指している若い女子学生達だ。寺子屋を単に貧しい子ども達に識字や保健衛生を教える場所としてだけではなく、教師を目指す若い人達の訓練の場としても大いに役立てたいと考えから、若い人達を積極的に教員として配置している。

サンギタさんサンギタさんをはじめとする寺子屋の若い先生達が、経験の不足から起こる様々な壁にぶつかりながらも前に進もうと頑張っているのは、みんな“教師になりたい”という、しっかりとした夢を持っているからだろう。その直向に頑張る姿こそ、小さな子ども達にとっては何よりの学びとなるのではないだろうか。ヒマラヤ・マリア・コカナ寺子屋、更なる発展を願いたい。




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2008年04月07日

三浦雄一郎先生と面会

4月7日(月)

三浦先生今日はヒマラヤ小学校の子ども達が、憧れの三浦雄一郎先生(冒険家、プロスキーヤー)と、感動の面会を果たした。*産経新聞の「三浦隊同行記」に其の時の様子が紹介されました

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2008年04月06日

ラムと母親の変化

4月6日(日)

今日はヒマラヤ小学校で期末試験の成績発表が行なわれた今年は子ども達の成績も良く、殆どの子ども達が進級を果たした。残念ながら不合格となった4名の内、3名は幼稚園年少クラスの子ども達だった。幼稚園年中クラスを設けていないヒマラヤ小学校の現状を考えると、2度、年少クラスで学ぶことはむしろ良いことだと思う。もう一人、不合格となった1年生の男子も、病気のため2学期の試験を受けられなかった事が大きな原因なので、本人もすっかり気持ちを入れ替えているようで安心した。またスポンサーシップの奨学生が全員、合格(進級)したことを、この場で報告したい

ラム今日の成績発表で飛び切り喜んでいたのは、幼稚園年長クラスのラムだった。なにしろ試験に合格した上に、これまで一度も成績発表に顔を出した事のない母親が学校に来てくれて、合格を誉めてくれたのだから、天にも昇る心地だったのでないだろうか。母親に頭を撫でて貰った時のラムは本当に嬉しそうだった。ぜひ写真をクリックしてください。

ラムは勉強が苦手で幼稚園年少クラスを2度、留年しているが、昨年、初めて試験に合格し年長クラスへの進学を果たしてから、ラムは人が変わったように勉強を頑張るようになった。2度の留年を乗り越え、自力で合格できた事がラムの大きな自信に繋がったのかもしれない。

ラムの母親はこれまで教育に無関心で、殆ど学校にも顔を出したことがなかった。家庭訪問をした時など、「勉強するより働いたほうが良い」という言葉を口にする事も何度かあった。そんな母親もラムが勉強を頑張るようになってから、少しずつ気持ちに変化が出てきたようだ。今回の成績発表に誰よりも早く駆けつけたところなど、母親の教育に対する関心が確実に高まっている事を示唆しているのではないだろか。

頑張った事を誉めてくれる人がいることで、ラムはこれからもっと成長するだろう。そしてラムの成長は、母親の教育への関心を更に高めるのではないだろうか。


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2008年04月05日

人生は出会い

4月5日(土)

先日、HPにヒマラヤ小学校の「沿革ページを作成するため、手元にある学校建設の話が始まった2000年頃から、現在に至るまでの資料を読み返した。自分作成した企画書やレポートなどを読んでいると、いかに当時の自分が必死だったのかが伝わってきて、可笑しかった。よくこんな稚拙な内容の企画書が通り、学校建設が実現できたなぁと驚くばかりだが、当時、学校建設に関わった先生達や生徒の熱意があったからこそ実現できたのだと、改めて思う。

漠然と心の中で描いていた学校建設の夢が、”学校を作ろう“という大きな動きに発展したのは2001年の頃。あの時は本当に嬉しくて、”はやく完成させたい“そんな事ばかり考えていた、正に夢現つの状態だった事を覚えている。

しかし、その後、外国支援で出来た学校の多くが運営面に大きな問題を抱え、中には僅か数年で廃校になっている学校もあるという事実を見聞きした時は、“学校さえ出来れば、貧しい子ども達がみんな学校で勉強できるようになる”と信じ込んでいた自分の認識の甘さを思い知った。そして、「もしかしたら僕達の学校も廃校になってしまうのでは」、という大きな不安が常に付きまとった。

結局、不安は解消されないまま開校の日を迎えたのだが、当時、机もない教室で子ども達が嬉しそうに勉強している姿を見たときは、感動で胸が潰されそうな思いがした。その事がきっかけで、“卒業生を出すまでは、なんとか挫けずに頑張ろう”と自分の心に決め、卒業生を送り出す事を僕自身の大きな目標としてきたが、来年はいよいよ、その卒業生を送り出すことになっている。

倒けつ転びつ、何とか目標達成の目処が立つところまでやって来られたのは、支援者や周りの人たちの暖かい支えがあったからだ。最近、人生とは出会いだとつくづく思う。



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2008年04月04日

嬉しいお知らせ!芝・増上寺でポストカードを販売中。


増上寺2この度、フェアートレードを通してアフリカゾウの保護活動を続けているアニムプロジェクトの皆さんのご協力をいただき、東京港区の増上寺で開催されていますイベントで、ヒマラヤ小学校のポストカード(子どもたちの描いた絵を元に制作)とラクシミ・ナピットの詩集が販売されています。



増上寺アニムプロジェクトのブースにはヒマラヤ小学校のポストカードと詩集の他、さまざまなフェアートレード商品が展示販売されています。ぜひお立ち寄りください。

場所:増上寺「アニムプロジェクト」ブース内

*開催日程は、増上寺へお問い合わせください。
写真提供:おかど様



 






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2008年04月01日

ビーズ教室

4月1日 

ビーズ今日はヤッギャ校長の自宅で、里親教育基金の奨学生リタによるビーズ教室が開かれた。小さな子ども達も参加し、初めてのビーズ教室は楽しく有意義なものとなった。

来年はヒマラヤ小学校から初めて卒業生を送り出す予定となっているため、開校以来の大きな目標の一つでもある、卒業生の経済的な自立を達成させるための職業訓練所の開設が待ったなしの状況だ。これから1年掛けて、しっかりとした職業訓練のプログラムを構築しなければならない。

プログラムを作るにあたって最も大切な事は、子ども達が本当にその技術や知識を元に頑張っていきたいと思えるかどうかだと思う。一方的な押し付けでは、結局、どんな活動だって長続きはしないだろう。ただ、現時点で「何がしたいか?」という問いに答えられる児童は殆どいないと思う。そのためにも早い時期から、様々な職業技術に触れさせる事で、自立意識の高揚を図ることが欠かせない。

ビーズ教室に参加した子ども達が、真剣な表情で取り組んでいる様子や、完成した時の嬉しそうな様子を見ると、職業訓練プログラムの一つとして構築できるような気がした。特に女の子にとっては、こうしたアクセサリー作りは職業として最適ではないかとも思う。これから練習を続けるうちに、奇抜なデザインのアクセサリーも出てくるかもしれない。楽しみだ。

リタ今日、子ども達に指導してくれたリタは幼い頃から大変聡明な学生で、現在は法科大学で学びながら弁護士になるという大きな夢に向かって頑張っている。2005年には日本訪問の機会にも恵まれ、北海道から九州まで日本各地を回りネパールの窮状を訴えた。教育を受けられた喜びと感謝の気持ちを一生懸命語るリタの姿は、各地で多くの感動を呼んだ。

あれから2年半、リタは自分の目標を決して見失う事無く、しっかりと夢に向かって歩んでいる。応援する僕たちにとっては何よりも嬉しいことだ。これから4月下旬までビーズ教室が開催される予定だが、子ども達にはビーズ作りだけでなく、夢を諦めずに頑張る姿など、リタからたくさんの事を学んで欲しいと思う。





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